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かって、大店法〜商調協による大型店の出店調整が効力を発揮していたころは、商店街には必ずといっていいほど理論家がいたものです。彼らは自らこれはと思う理論家を師と選んでセミナーなどを利用して学び、それと並行して各地の有志と組織をつくって自己啓発に努める、ということに別段気負いもせず、経営者の仕事の一環として取り組んでいました。
彼らを中心に地域の若い経営者が集い、深夜まで経営論議にふけることもしばしば、かっては各地の商店街に誰もが認める名実共に街のリーダーとしてこのような人がいたものです。今では信じられないような話ですが、かって武雄市で「商業界」ゆかりの勉強会を立ち上げるという話があったとき、先発していた長崎市の先輩達が金一封持参で激励に来てくれたそうです。
もう少し時代を遡ると、現在の小売業大手の創業者のほとんどは、各地の商店街のこういった有志の層から出ていますからね。小売業に限らず、かって商店街は、自治体の首長をはじめ政治家、会議所会頭をはじめ地域の産業界の指導者を輩出する人材の宝庫でした。
こういう時期を知らない人には信じられないことかも知れませんが。
今日では商業関係は人材払底、これは商工会地区では特に顕著ですね。理事の大半は非・商業者、青年部も同様、というところが圧倒的に多い。
商店街と郊外との綱引きが激しくなる時期、商店街の有志は活路の選択を迫られました。このまま商店街で一蓮托生、消滅への道を歩むのか、それとも郊外へ討って出るのか、と。大店法がらみで各地に「地域主導型ショッピングセンター」(このコトバも死語になった!)が計画された時代です。核に量販百貨店を誘致、自分たちは有志を募って共同店舗を併設、モール部分を担当する、ということです。当時は「ラグジュアリィ」も成長しておらず、地域商業者が生き延びる選択肢として妥当だったかも知れません。これで街から積極的な人たちがごっそり抜けていった、という例も多いことでしょう。
とにかく、このころ、多くの都市の商店街には理論的なリーダーが存在し、組合の執行部をになっていました。いまの状況からは考えられないことですが、当時、各地で商業関係の理論家といえば商店街にいるというのが常識でした。
ただし、その理論の内容は、いささか?でした。
実はここに現在商店街活性化が遅々として進まない理由の一つが隠れているのです。
付 記
当時は商業の指導者として商業者から畏敬の眼をもって見られる人が幾人もいて、「公開経営」とか「流通革新」とか「店はお客のためにある」等々、それぞれテーマを掲げて全国の商業者有志を指導していました。各地にはこれらの指導者の流れを汲む人がいてそれぞれの立場から地域において啓蒙活動を行っていたものです。雑誌「商業界」が毎年開催する箱根セミナーでは、全国から2千人以上の参加者を集め、彼らは昼は講義、夜は相部屋の見も知らぬ各地の商業者同士が商売に対する思いを語り合い、あらためて小売業への情熱をたぎらせて地元に帰り仲間に状況を伝え、共有するという時代でした。
MJでしたか、ローマ字タイトルに変わった当時の日経流通新聞には指導者の論文が毎週掲載され、商店街の若手はこれらをテキストに勉強会を開く、代表が全国セミナーに参加して結果を持ち帰る等々、全国的に業界全体が熱気を帯びていました。なかでも量販百貨店は比肩するもののない位置を占めて文字通り日の出の勢い、態様にしたセミナー等は無数に開催され、さらにこの時期、小売業界には他業界から多くの人材が流入しました。
このころの小売業関係者は勉強するのが当たり前、自己啓発への情熱は当時を知らない人にはとても信じてもらえないレベルでした。
商店街に導入された理論
> ただし、その理論の内容は、いささか?でした。
> 実はここに現在商店街活性化が遅々として進まない理由の一つが隠れているのです。
まず、「公開経営」
これは、「商法」を公開する、正札制の普及を図る取り組みだったそうですが、私は良く知りません。たしか公開経営指導協会という団体が現存しているはずです。昭和30年代には商品(特に買い回り品)に定価が標示されていなかったらしい。
「流通革命」
これは文字通り一世を風靡しました。
簡単に言えば、小売段階が大規模化し取引の主導権を握ることで流通を合理化し、価格を引き下げ、消費者の生活向上に貢献する、というものでした。
実務レベルの技術・理論の裏付けは当時米国で他業態を圧倒していたスーパーマーケット(300坪クラス)の技術、理論でした。
現在の量販小売業の多くはこの主張に共鳴した青年商業者の実践から生まれています。彼らはスーパーマーケット理論を「人類の商業の歴史4000年の集大成」としてたたき込まれたのです。この時期、セミナーでは「自分の頭で考える前に米国に学べ」ということが主張され、それはそのまま社内教育に導入されましたから、各企業とも「自分の頭で考えない」社風が生まれたことでしょう。
さて、スーパー業界以外の小売業界においてもスーパーマーケットの成功、その発展した形としての量販百貨店の出現と成功は、その成功をもたらしたスーパーマーケット理論の正しさを証明するものとして受け止められました。それもスーパーマーケット理論としてではなく、小売業一般にあまねく通用する「一般理論」として受け入れられた、ということです。小売業界のみならず関連する業界全て、建設・什器・広告等々も含めてのことです。
この時期から商店経営に関する専門書が多数出版されるようになりましたが、それらのほとんどはスーパーマーケット運営に関する理論・技術を一般論として祖述(もともとある考え方を検討を加えず垂れ流す)するものでしたから、小売業界及び関連業界はスーパーマーケット理論一色になりました。(これには消費購買行動の未熟という別の要因もあったのですが、このことについてはここではこれ以上触れません)
この理論は商店街にも入ってきましたが、何しろスーパーマーケット理論ですから、店前通行量頼みの商店街商法とはなかなか上手くかみ合いません。理論は商店街に入ってきたとたん、それまで持っていたスーパーマーケット理論としての合論理的な体系性をぐちゃぐちゃにされ、商店街の皆さんから取り入れやすい部分をつまみ食いされる、ということになりました。
商店街では我が国の商業界が挙げて「理論武装」に取り組んだ時代、有志の働きによって理論の導入を行いましたが、それは理論を自分たちのもともとの商売に都合のいいように解釈・つまみ食いするものでした。
当時のリーダー達は、日に日に勢いを増す量販店との競合に直面しながら、彼らと同じ土俵(お客・技術・立地)で戦わなければならなかったのです。何しろ当時はラグジュアリィニーズなどはどこを探しても無かった時代ですからね。
その後、量販店は郊外へと移動していき、彼らにとって商店街はもはやライバルでも何でもない存在になっていき、この過程で「商店街活性化」という政策テーマが生まれてきたわけです。
この間、商店街の知識・技術はそれとは気付かないまま、スーパーマーケット理論を密輸入していたわけですから、活性化策も量販店の後追い・物まねの域を出ませんでした。アーケードやカラー舗装、スタンプ事業などの施策は全て量販店が取り組み、成果を挙げたものの模倣からスタートしています。この時期の商店街が持っていた理論は、スーパーマーケット理論の焼き直しだった、ということはよく覚えておきましょう。もちろん、これは商店街のみならず先ほども述べたように商業界全体及び関連業界を含んでのことです。
各地の商店街活性化関連の理論・技術は、スーパーマーケット理論の自己都合による換骨奪胎というこの時期の水準からほとんど進化していません。むしろ指導者がいなくなった分、地域によっては退化しているかも知れません。TMO関係者に至っては昭和40〜50年代に自分の町の商店街でも若い商業者のグループが自生し商業に賭ける夢を語り合っていたなどということは想像もつかないことでしょう。
この時期商店街のリーダーだった人たちのほとんどは、ダイエー創業者である中内さんなどと同世代ですから、多くは既にリタイアしています。この人達の指導を受けた次世代は、商店街活性化に取り組み、やがて商業は郊外だ、という流れのなかで共同店舗方式による郊外型ショッピングセンター開設へと方針を転換していきました。都市によってはこの時期、意欲的な商業者は郊外へ移転、商店街にはさまざまの理由で共同店舗に移れない・移りたくない店舗の集合体、という実態に陥ったところもありました。
高度化を推進した理論
ちょっと前の時代、大型店対策として取り組まれた「高度化」を振り返ってみたいと思います。
大型店(百貨店、スーパー)の進出によって打撃を受けた商店街の対応策として高度化事業に取り組むにあたって商店街が考えたことは、「規模によって劣っている大型店に対抗するために組織を活用する」ということでした。組合制度の趣旨からしても妥当な考えです。
組織的に対抗すべき大型店の力は、規模の力とりわけハード的な規模と受け取られました。この時期、大型店のウリは「ワンストップショッピング」すなわち店内の品ぞろえでしたが、商店街ではもっぱら施設に着目したわけです。こうして、アーケード、カラー舗装、街路灯など大型店の施設を後追いする施設整備及びスタンプ事業などの顧客サービスが普及しました。
事業の成果は皮肉なことに大型店よりも、隣接商店街を直撃しました。
高度化事業に取り組んだ結果、施設・サービスが充実した商店街は、取り組まなかった隣の街と「差別化」に成功し一挙に差が付きました。当時、活性化に成功した、といわれる商店街の隣にはかならずと言って良いほど競争に敗れた商店街の姿がありました。いまでは「仕舞た屋(しもたや)」どおりになっていることでしょう。ちなみに「仕舞た屋」とは商売をやめた店舗を住まいに改造した建物のことです。
商店街活性化という言葉が使われ始めたのもこのころですが、当時は活性化とはもちろん「街が繁栄すること」であり、「大型店に見習う」と、他の商店街と「差別化」されることになりました。その結果、商圏内のお客をここに集めることが出来ました(言い忘れましたがこの時期、大型店は商店街の中に立地していました)。
このような成功を見た後続の商店街にとって、高度化とは先進事例の事業を継承することでした。実際に成功し繁盛している事例を目の当たりにするわけですから何の理屈もいりません。同じような事業が全国に波及していきました。このころには、活性化=アーケード、カラー舗装、街具整備、スタンプ事業などが定番であり、誰もそのことに疑いを挟む物はありませんでした。
つまり、高度化事業への取り組みにあたって、これを商店街全体の振興に結びつける理論はほとんどありませんでしたし、その必要も自覚されていませんでした。活性化とは大型店を見習って大型店の施策をこちらの都合で編集して取り入れること、というように短絡してしまったのです。
いまとなってはないようが不十分ですが、当時の大型店は多くの商店街とは比較にならないレベルで「デスティネーション」を作りあげていました。今では「たくさん売れるものなら何でも売りたい業態」とtakeoから揶揄されますが、当時はもの不足・もの普及という時代、量販というテーマでワンストップが成立したのです。
このようなデスティネーションを支える設備として、施設設備、サービスがあったわけですが、デスティネーション論議はきれいに省いて施設とサービスを採用したわけです。もちろんこれで大型店と対抗できるはずもなく、事業の成功は上述のとおり隣接する同質商店街からのお客を奪うことで実現したものだったことは理解しておくべきです。
高度化とは環境整備&販促事業?
> ちょっと前の時代、大型店対策として取り組まれた「高度化」を振り返ってみたいと思います。
この時期の高度化事業は、大型店の施設環境整備の商店街への導入というように見えます。これには隠れた問題がありました。
大型店の場合、デスティネーションは全店的な品ぞろえで実現するワンストップショッピングであり、買い物環境整備はデスティネーションを補完・補強するものです。
商店街の場合、デスティネーションである「買い物行き先」としての個店の店づくりについては「個店が自分で対応すべきこと」としてカッコでくくっておいて、環境整備=デスティネーション補完事業に取り組んだわけです。このことは、事業の成果を見れば明らかです。環境整備の成功は大型店からお客を呼び戻すのではなく、隣接する類似商店街からお客を吸引することによってもたらされました。同じ程度のデスティネーションなら環境整備が充実している方が選択されるのは当然のことです。
このような「成功」があったため、つい最近まで、高度化事業は個店の改革については口を出さない(個店の改善計画の立案までは支援しますが)、ということになっていました。この間、「勉強」の遅れを解消するチャンスは何回もあったのですがほとんど活かされませんでした。
第一に「活性化構想策定事業」がありましたね。
この構想を策定する時点で、「商店街が活性化するとはどういうことか」ということをしっかり考えておくべきでした。高度化事業に取り組んだ街も取り組んでいなかったところも、これまでの各地における取り組みの結果については十分認識していたわけですから。これをサボって「高度化事業」をはじめハード事業と販促事業をもって活性化構想の内容としてしまいました。
第二に「中心市街地活性化基本計画」。
前述の「活性化構想」に基づく取り組みが成果を挙げられなかったことを契機の一つとしてスタートした枠組みでしたが、計画の内容は構想時点で個別商店街単位で計画していたデスティネーション補完事業を市街地全体に拡大する、という性格の計画がほとんどでした。
高度化事業による環境整備・販促事業が展開された時期は、商業=デスティネーションだと言う当たり前の考え方を持った人たちが有志とともに商店街の第一線から退場した時期と重なっています。
高度化事業を推進する段階での商店街のリーダーは代替わりしており、「店はお客のためにある」=デスティネーション追求型から「補助支援制度を活用したデスティネーション補完事業」実施型へと変わっていきました。補助事業の仕組みなどに大変詳しい人が輩出したり。
かっては商店街リーダー=業績と商業者としての人格識見を兼備していましたが、ここからは交渉・渉外と合意形成、事務処理がリーダーの仕事になりました。
こういう時期に、「ショッピングモールへの転換」を目指すわけですからなかなかおいそれと進む話ではありません。しかし、残された時間には限りがありますから機が熟するまで待つ、というわけには行きません。第一商店街の実態を見ればそういう時期は永遠に来ないことは明白です。
これまで個別組合単位で高度化事業に取り組んできた「理論」の水準でこれから「ショッピングモールへの転換」を推進することは不可能です。このことは環境整備に限定しても言えることです。この時期、具体的な個店の繁盛の可能性を提示できない事業は全て組合員からそっぽを向かれてしまうことは確実です。事業は必ず最終的に「個店の繁盛」につながる広い事業の枠組みの一環として取り組むことが必要です。そうしますと事業に先立って個店の「デスティネーションつくりのありかた」というこれまでの商店街の活性化「理論」ではカバ−していなかった領域についても明確な方針・取り組みを計画することが必要です。とりあえずそのための理論を装備することが緊急の課題ですね。
これまで各組合が高度化事業を推進してきた理論は、これからの商店街活性化を推進する理論としては物足りない、ということが理解されたことと思います。
商店街の理論水準
>> ただし、その理論の内容は、いささか?でした。
>> 実はここに現在商店街活性化が遅々として進まない理由の一つが隠れているのです。
皆さんも記憶しておいででしょうが、「通行量調査」という調査手法があります。商店街の場合、時系列で通行量の変化を調査して商店街の実態把握に資する、ということですが、はて、通行量の変化を調べて何が分かるの?といえばこれは文字通り通行量の変化だけですね。
皆さんは、昔=店前通行量が多かったから街が繁盛した。今=店前通行量が減ったから街が寂れている、とお考えのようですがこれは転倒した考え方です。昔、商店街に人通りが多かったのは、街に中に繁盛店が軒を連ねており、それらのお店をデスティネーションにお客が来街していたからです。
こういうことをすっかり忘れて、通行量が減っている→ほれ、人寄せイベントだ、カラー舗装だ、アーケードだといくら「通行条件」を整備してもお客が戻ってくることはありません。来る用事が無いんですから。
こういう発想ではとても街の活性化はおぼつきません。
街の活性化は自分たちの発想で、みんなで手作りで進める街づくりなどと耳障りは結構ですが、企画の内容は金太郎飴かそれ以下ということでは時間ばかりが浪費される。「毎月組合員の送別会を開いている」という商店街も現に存在しています。もちろんタイル貼りのアーケード、駐車場、スタンプカ−ドと三拍子揃った商店街です。
考えてみますと、第一陣(ダイエー、ジャスコなどの創業者と机を並べて勉強した世代)が引退、転・廃業したあとは理論的にはますます見るべきほどのは無くなり、現在に至っています。
嘘だと思うならみなさんのところの基本計画、中心商店街の最大のライバル、不倶戴天の仇敵である「郊外ショッピングセンター」への対応についてただの1行でもなんか書いてありますか?
郊外型ショッピングセンターに一言も言及せずに中心商店街の活性化が計画できますか? どこからみても、誰がみても至極当然のこういうことに問題意識が及んでいない、これでどうやって「ショッピグモールに見立てた整備」などが出来るのでしょうか?
第一世代から綿々と現在まで引き継がれている、かっては小売商業の理論誌とまで評されていた雑誌「商業界」あたりでは商店街の話題はあまり出ないようですね。そういえば、昔勉強したてのころにはむしろ商店街から脱出せよ、というキャンペーンみたいな記事が多かったようでした。
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