投稿時間:2003/08/20(Wed) 16:01
投稿者名:takeo
タイトル:「価値観本位」時代
消費購買行動、昔は「最寄り」&「買い回り」などというセットで説明可能でした。商品は「必需品」と「選好品」でしょうか。
もの余り、店余り時代になりますと、何でも最寄りで買えるのが一番だが、気に入るものがなければあるところまで出掛ける、あるいは、買うこと自体をきれいさっぱりやめてしまう、などといった行動が珍しくありません。(もの余り−店余りというのは、経営にとって根幹になる条件ですからね、このことを忘れたら何も考えない方がまし、というくらい。この条件の検討を省略するとたちまち「省思考」の罠にはまることになります。
さて、本論です。
無ければ生活が出来ない=必需品といわれる商品一つを手に入れるだけでも行き先を選び、陳列されたラインからピックアップしなければならない。いやでも選ばないと何一つ手に入れることが出来ない、これが21世紀初頭我が国の消費購買行動の環境です。
消費購買行動の基準は? といわれたら、そんなこと、価値観に決まっているじゃないですか、というわけです。佐賀弁でいえば私の大好きな「面々の繰り合い」ということになります。
「価値観本位の時代」、これは大変な事業機会ですよね。
投稿時間:2003/08/23(Sat) 14:56
投稿者名:takeo
タイトル:「価値自由」ということ
「価値観本位」の生活=自分の価値観を基準に生活の特に「カジュアル」領域を組み立てるることが出来る。
この条件がもっともよく整っているのはわが日本です。
このことはライフスタイル=生活様式ということで見ればよく分かります。日本に勝るとも劣らない消費大国アメリカのライフススタイルは、民族・職業・宗教など社会的・客観的な属性によって規制されています。ここ20年くらいの「浪費社会」の進展で相当緩和されたといわれますが、それでも日本と比べればまだまだ「ライフスタイルの階層性」はしっかりしています。
消費行動は準拠集団(階層)のライフスタイルの模倣である、とはいいふるされたマーケティング業界の常識です。人々は「自分が所属したいと考えている社会的階層」のライフスタイルを常に注視、彼らの生活を模倣することで階層への帰属を疑似体験する、というわけです。
ところが我が国にはカジュアル(つまりnot formal、自由裁量時間)のライフスタイルが階層的に確立していません。階層別ライフスタイルというものが存在しない、世にも珍しい社会ですね。女子高生がグッチのバッグを新作が出るたびに買う、ヤンキーが3ナンバーの新車を転がす、ヨットハーバーには市役所職員がヨットを係留している、というのは世界広しといえども「面々の繰り合い」、我がニッポン国以外にはありません。
こういう社会が「もの余り」状態に至った訳ですからね。
いまさら「グローバル・スタンダード」の階層消費向け需給体制に右へならいしようなどという省思考・アナクロニズムを発揮すると、たちまち経済は不況化する。こんなことは当たり前、ついでにいえば、構造改革やデフレ対策などで何とかなることでもありません。
話がどんどんずれまくり、「価値自由」についてはあらためまして。
投稿時間:2003/08/25(Mon) 10:32
投稿者名:takeo
タイトル:Re: 「価値自由」ということ
> 話がどんどんずれまくり、「価値自由」についてはあらためまして。
ここでいう「価値自由」というのは、たとえば社会学系の議論での「価値自由」=価値中立、価値観と無関係に成立する客観的な認識、ということではありません。
「もの余り」ということは、(それなりの所得があれば)、もの不足時代の課題である生理的欲求の充足や安全の確保といった価値観に優先する課題あがる、何が価値かということを環境与件から規定されている、という状況から離陸している、ということです。
つまり、もの余りとは、ものが不足しているため、努力しないと生活・生存が脅かされる、という状態から脱却して、自分が実現したい価値を自由に追求することが出来る、という条件が整った、ということを意味しています。もちろん支払い手段=所得の問題はありますが。
価値自由とは、人間の存在条件=必然的課題を解決するということから解放され、自分で自由に自分の「やりたいこと・堪能テーマを設定できる、堪能のために時間を使うことが出来る、ということです。
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