投稿時間:2003/03/30(Sun) 13:04
投稿者名:takeo
タイトル:『日本語大切』
以下の記事はtakeoの個人サイト「吶喊」からの引用です。
ちなみに「吶喊」は、
http://www2.saganet.ne.jp/take-one/index.htm
にあります。
【以 下 引 用】
ちょっと遅れましたが、「文芸春秋」三月号は、『日本語大切』という特集を企画しています。
藤原正彦さんという数学の先生(お茶の水女子大教授)が、「数学者の国語教育絶対論」という一文を寄せています。
これは熟読玩味する価値がありますね。
ちなみに次のような構成になっています。
@日本再生の急所
A国語は全ての知的活動の基礎である
B国語は論理的思考を育てる
C国語は情緒を培う
D祖国とは国語である
Eこれからの国語
特集の巻頭で13ページという、基調報告みたいな扱いです。
日本人はなぜ優秀だと言われる人でも論理的な考え方が苦手なのか、
中高生の成績は、国語の偏差値が基準といわれるのはなぜか、
数学が出来ても論理が使えるとは限らない、どうして?
テレビで見る外国人の街頭インタビュー、なぜみんなあんなに論理的?
等々、これまでの疑問が氷解します。
図書館等で読めると思いますが、手に入らない人は連絡いただけば何とかします。読んだ方、ご意見を如何ですか。
投稿時間:2003/05/02(Fri) 16:49
投稿者名:夢之助
タイトル:Re: 『日本語大切』
> 日本人はなぜ優秀だと言われる人でも論理的な考え方が苦手なのか、
> 中高生の成績は、国語の偏差値が基準といわれるのはなぜか、
> 数学が出来ても論理が使えるとは限らない、どうして?
> テレビで見る外国人の街頭インタビュー、なぜみんなあんなに論理的?
「和を以って貴しと為す」が、連綿として日本人の心理に作用しているのかも知れません。
インド・西欧人は”絶対的自己規定”であり、対して、日本人は”対象依存型の自己規定”であると、言語学者の鈴木孝夫氏は言っています。
”西欧の文化が、観察者と対象の区別、つまり、自他の対立を基礎とするのに対し、日本の文化は日本人の心情が自己を対象に没入させ、自他の区別の超克をはかる傾向が強いことはしばしば指摘されるところであるが、日本語の構造の中に、これを裏付ける要素があるという事ができよう。”
鈴木孝夫著「言葉と文化」岩波新書からの引用ですが、学術書ではなく、色々興味あることが例を上げてやさしく書かれてあります。「文春」は読んでいませんが、関連して、この本を紹介してみました。
投稿時間:2003/05/02(Fri) 21:00
投稿者名:takeo
タイトル:Re^2: 『日本語大切』
> 「和を以って貴しと為す」が、連綿として日本人の心理に作用しているのかも知れません。
> インド・西欧人は”絶対的自己規定”であり、対して、日本人は”対象依存型の自己規定”であると、言語学者の鈴木孝夫氏は言っています。
> ”西欧の文化が、観察者と対象の区別、つまり、自他の対立を基礎とするのに対し、日本の文化は日本人の心情が自己を対象に没入させ、自他の区別の超克をはかる傾向が強いことはしばしば指摘されるところであるが、日本語の構造の中に、これを裏付ける要素があるという事ができよう。”
> 鈴木孝夫著「言葉と文化」岩波新書からの引用ですが、学術書ではなく、色々興味あることが例を上げてやさしく書かれてあります。「文春」は読んでいませんが、関連して、この本を紹介してみました。
これはなんとも言えませんね。
絶対的自己規定と対象依存型自己規定の違い、もう少し説明していただけると面白そうです。
和をもって・・・からの連想でいうなら、「お前どう思う」と聞かれたら、「どう思うようにしましょうか?」と(答える)ということでしょうか? なんかありそうな話ですね。
こういう傾向は「和をもって」の尊重というよりも、「ためにする」話に呪縛された結果ではないでしょうか。一方ではガンガン自説を通す人がいますからね。それとも日本語の構造に基づく基づくものであって「日本語人」には免れられないことなのでしょうか。
投稿時間:2003/05/03(Sat) 11:30
投稿者名:夢之助
タイトル:Re^3: 『日本語大切』
> 絶対的自己規定と対象依存型自己規定の違い、もう少し説明していただけると面白そうです。
> 和をもって・・・からの連想でいうなら、「お前どう思う」と聞かれたら、「どう思うようにしましょうか?」と(答える)ということでしょうか? なんかありそうな話ですね。
なるほど(笑)「どう思いましょうか?と(答える)」は、核心をついてズバリかと。
「相手の主張や気持ちとは一応独立して自分は少なくともこう思うという自己主張」「強烈な自己主張を相手にぶつけて自分を分ってもらう」に対し、「他人が意見なり願望なりを言葉で明確に表明しないうちに、それを察知勘案して主張する」「自分を相手に同調させ、相手の気持ちになって」というところです。
> こういう傾向は「和をもって」の尊重というよりも、「ためにする」話に呪縛された結果ではないでしょうか。一方ではガンガン自説を通す人がいますからね。それとも日本語の構造に基づく基づくものであって「日本語人」には免れられないことなのでしょうか。
我が強過ぎるという人もいるのでしょうが、一般的には、”ガンガン自説を通す”事に違和感を持つこと自体が、日本人に対象依存型自己規定という概念がある証拠とも言えないでしょうか?絶対的自己規定を概念に持つ西欧人にとって、それは当たり前の事であって違和感はないと思われます(経験はないですけど)
肝心の、国語(日本語)の構造に基づく概念(思考方法・コダワリ)がどのように形成されるのか、外国語との比較については、まだ考えが及んでおりません。
「あまりにも同質的な文化、民族、宗教が対象同化の心的構造を生んだ」という主張があるようですから、日本人は言葉の厳密な定義をせずとも分かり合えるが、混合(異質)された文化を持つ西欧人にとって、言葉の厳密な定義をもって共通認識をせねばならなかったとも思えます。論理的思考の差は、そこら辺にあるのかなとも思っております。
投稿時間:2003/05/04(Sun) 13:45
投稿者名:takeo
タイトル:板の移動は如何ですか
「和をもって・・」というのはそういう風潮があった方が何かと都合のいい人が言う台詞でしょう。そういう人に限って気に喰わない事があるとそういう日ごろのスローガンとは全くかけ離れた言動に及んだりする。
このテーマは、大変興味がありますので、後は個人サイトに移動して続けたいと思いますが如何でしょうか?
http://www2.saganet.ne.jp/take-one/index.htm
WORKSHOP 2 にどうぞ。
よろしくお願いします。
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