投稿時間:2003/01/10(Fri) 07:18
投稿者名:takeo
タイトル:デフレを読み解く
歴史がくり返さないし、とりわけ有史以来の転換期とも考えられる現在、デフレとはなんぞや、ということも議論が分かれるところだと思われます。
以前も書きましたが、デフレっぽくない?、デフレかも、といった論議が交わされているかと思う間もなくいまやデフレを疑うものはほとんど無いというところに来ています。どうしてこういうなし崩しが起こるんでしょうね。
一般に、デフレとは需要<供給という状況のなかで連続的に物価が下落する現象、のことです。
デフレとは単にこの現象を指し示す言葉であり、バブルといったからと言ってその現象を引き起こしている原因が理解されていることでも、ましてや対応策が自動的に出てくるわけでもありません。
これは大事なことです。
歴史上経験してきたデフレと同じ状況なら、あるいはその当時効果のあった対策を初期条件の変化を見極めながら処方する、ということでOKかも知れません。
しかし、これまで経験したデフレ期の状況と事態が大きく異なることが明かであるならばと、現下の状況には別の定義が必要ではないでしょうか?
もちろん、定義が変われば対応策も変わることになります。
少し考えてみたいと思います。
投稿時間:2003/01/10(Fri) 07:51
投稿者名:takeo
タイトル:需要と供給
> デフレとは需要<供給という状況のなかで連続的に物価が下落する現象、のことです。
まずはおなじみ、需要と供給。
何に気なく使っているけど、これ、ホントは難しいんですよね。
@生命−文化的存在としての人間のニーズとその充足
A資本主義市場経済におけるマーケティングのフレーム(提案と購買)
B経済学における需要と供給(需要=供給)
ふつう使われている需要と供給には大体三つの意味があり、それが混同されて使われている。このため、なかなか理解しにくいということが起きている。
景気や政策がらみで問題なる需給とはAのことです。
Aの需要=購買と考えればその内容は、@的欲求+支払い手段+選択です。
ある商品なりサービスに対する需要とは、「欲しい」、「お金がある」、
「他にもっとほしいものはない」という条件が揃って初めて実現します。
このことはあまり論じられていませんが、市場経済のイロハですね。
特に、「供給されたものは需要される」という「法則」が成立する時代
(供給<需要+潜在需要)が長かったことがAとBを混同させる、ということもありました。
景気にからむ需要と供給はAの領域のこと。(Bでは常に需要=供給が成立)で、一般にデフレとは、需要<供給という状況が生じた結果、「競争対策」として価格が下げられる、市場全体としてこのような傾向があり、かつそれが持続する、ということですね。
この原因はいろいろ考えられますね。
如何でしょう、A的需要の構成から考えてみましょう。
投稿時間:2003/01/10(Fri) 20:46
投稿者名:takeo
タイトル:Re: 需要と供給
>この原因はいろいろ考えられますね。
>如何でしょう、A的需要の構成からいくつか上げてみてください。
@これまで常識とされてきた支払い手段の不足による需要<供給
A@的需要の変質による需要≠供給
B「選択」が供給されている商品・サービスの範疇に納まらない場合の需要<供給
さらに、@的需要が市場経済になじまない場合の需要<供給も現時点ではあり得る。
これらの要因及び各要因が複合して起こる需要<供給は全て価格下落をもたらす。すなわち、デフレが起こる。
しかし、これらの「デフレ」のうち、従来型の施策(支払い手段の付与)で対応できるのは、@及び@が大きな部分を占める複合型の場合だけ。
A、Bの要因がそれぞれ単独、または両者が中心となった要因複合デフレの場合、支払い手段=通貨を操作することで供給側が救済されるとは考えられない。
投稿時間:2003/01/10(Fri) 20:49
投稿者名:takeo
タイトル:デフレという認識
>@これまで常識とされてきた支払い手段の不足による需要<供給
>A@的需要の変質による需要≠供給
>B「選択」が供給されている商品・サービスの範疇に納まらない場合の需要<供給
>さらに、@的需要が市場経済になじまない場合の需要<供給も現時点ではあり得る。
>A、Bの要因がそれぞれ単独、または両者が中心となった要因複合デフレの場合、支払い手段=通貨を操作することで供給側が救済されるとは考えられない。
すなわち、A、Bを主な要因とする価格下落はシステムの伝統的なデフレ対策で対応できる性格の問題ではありません。
Aについては、供給側(個別企業)の自己革新が必須であり、Bに至ってはこれまでの市場経済の経験を超えた対応が必要です。
現下の状況は、
A的状況に至った市場経済が既存の需給の規模を縮減させた。
その結果として@が発生している。
さらに背後ではBも着実に進行・拡大している。
という要因競合がもたらしている画期的なレベルにあると判断すべきでしょう。
さて、このような前代未聞の状況を「デフレ」と安易に認識してよいものか?
いうまでもなく、問題認識は対応策を規定しますからね。
投稿時間:2003/01/12(Sun) 09:18
投稿者名:takeo
タイトル:「<国産品不況>デフレ」
現在の状況は以下のとおりです。
国産品(国内) 非国産品(国外※)
消 費 減 増
投 資 減 増
雇 用 減 増
倒 産 増 −
※「国外」とは国内需要に対するための国外での対応
不況の名称ですが、名は体を現す、「<国産品不況>デフレ」と呼ぶのがもっとも適切ではないかと思いますが、いかがでしょうか
投稿時間:2003/01/12(Sun) 10:04
投稿者名:takeo
タイトル:<国産品不況デフレ>のメカニズム
別の枝で現下の不況を<国産品不況デフレ>と命名してみました。
このデフレが発生したメカニズムを考えてみたいと思います。
既に1985年頃から卸売物価・消費物価の停滞が始まっています。
80年代後半には既存大型店は前年対比割れ店舗が続出する、という趨勢が生まれました。周辺商圏は開拓し尽くされた、ということですね。これに先立って好景気を背景にしたメーカーの設備投資も過剰といわれるほど行われていましたから、土地需要も豊富でした。これらの結果が市場に膨満をもたらしました。新しいライフスタイル−需要が生まれないと、買い換え&補充需要しか見込めない、という状況です。
いっぽう昨日と同じ消費財の買い換え&補充という購買動機は、ショッピングというよりも購買業務という性格が強い。これは企業の購買業務と同じようにコストパフォーマンスが重視されます。
購買価格と所要時間の節減ですね。
これに対応するためにとられた戦略が価格競争であり、コスト低減を目的にした海外からの消費財輸入&生産部門の進出です。買い換え・補充需要はコスト重視、海外製品・人並みでOKというライフスタイル−購買行動が定着しました。製造部門は生産拠点を海外とりわけ中国に移転、空洞化現象が発生し現在に至っています。
設備投資は一巡、市場はもの余り、という80年代後半に始まった実体経済の趨勢は土地の実需不足をもたらします。既存ニーズに対応する設備は過剰、新規需要は一部ITだけ、消費市場を一変させるような革新はどこからも提唱されない、という状況が続きます。
やがて土地バブルは、実需を伴わない「買った値段よりも高く売れるに違いない」という思惑に基づいた投機一辺倒となりました。この投機=バブルが土地投資への融資の規制という大蔵省銀行局の一片の通達によってしぼんでしまったのは、背後で進んでいた消費膨満−設備過剰−土地供給過剰という実態があったからです。このあたり、需要膨満という現状を一変させるような新しいライフスタイルの出現があれば、設備の稼働−市場の革新−設備の新陳代謝−市場の活性化と進み、土地需要もそれなりに維持されたと思います。
もちろん、土地価格のバブル部分の是正は必要でしたが、もとはといえばお金が土地に流れていったのも実体経済の投資先が不足していたからです。この時期に消費低迷の原因を究明し・対応策=消費部門への供給の革新が行われていれば、緩やかな段階のチェンジが出来たかも知れません。後の祭りですが。
設備過剰・土地含みの激減は、企業の経営圧迫、収益悪化の大要因ですから、これは株価を直撃します。実体経済の余剰資金のもう一つの受け皿であった株式市場もあっという間にバブル終了です(といってもまだまだ底に付いたわけではありません。いくら思惑といってもそこはやはりなにがしか実体経済に兆候が無いと動き出すことができません)。
一方、この時期に銀行がやっていたことを考えてみれば、今日経済政策の焦点となっている銀行の経営再構築が<国産品デフレ>脱出に効果があるどころか、全然全く逆効果であることが明かだと思います。
投稿時間:2003/01/17(Fri) 10:23
投稿者名:takeo
タイトル: <デフレ>とは何か
ちょっと文章がくどくて分かりにくいかも知れませんね。
少しづつ詳しく書いてみたいと思います。
私の考えでは、今回の「デフレ」は、これまで経験してきたような不景気とは全く違う、ということです。
循環型の不景気は、消費好調−設備投資・生産拡大−消費続伸−設備拡張−需要の鈍化(潜在需要の顕在化が間に合わない)−在庫増大−設備投資の減少−雇用調整−と進むわけですが、やがて新製品の登場による需要喚起、在庫一掃による新たな在庫投資−設備投資−需要拡大−と新しい成長プロセスに入っていくものでした。
その背後には、実現を目指す「あるべき生活」像がありました。ボーナス毎に買いそろえるべきアイテムがあり、全国・全世帯がアイテム揃えレースに参加していたわけです。
ナショナルの創業者・松下幸之助さんが提唱された「水道理論」というものがあります。松下さんは「水道の蛇口をひねると無尽蔵に水が出てくる。商品もどんどん作って水道水のように消費できる世の中を目指す」ということを理想として経営者として務められたということです。理想を掲げるか否かは別として、敗戦以後、当時までの経営者はほとんどこのような考え方を是認し、前提にして企業経営にあたってきた、ということが出来ると思います。
このようにかっては誰も疑わなかった「生産の論理」とでも言いますか、ものを作る、消費することは無条件に良いことだ、という考え方が背後にある時代の「不景気」だったわけですね。
今回はいつもなら「もっとものが欲しい」という家庭の事情があったのに、それに代わって、「各家庭への消費財の飽和」がありました。これが今までの不景気と異なる事態の構造的な要因ですね。
家庭にはものがあふれている、新しい、全体としての景気を引っ張っていくような大型消費財 −国民のライフスタイルを一変させるような波及力を持った− は全く登場していません。
不和受胎のなかでの競争は、類似商品間の「差別化」ということになります。これまでの「たくさん作ることはいいことだ」の代わりに「よそと違うものを作ることが良いことだ」が打ち出され、これでもかこれでもかと新製品が提案される。
ただし、「新」と言っても「旧」に比べて機能が加わり、デザインが代わったアイテムが提案されるだけ、生活自体が変化するほどのことではありません。
この「差別化」という流れでDCブランドやはてはスーパーブランドと呼ばれる海外ブランドまで需要が拡大しました。
一方で面白くもなんともないルーティンの生活を支えるアイテム販売業=量販百貨店はこの時期から悪戦苦闘が始まります。高級化路線をとってみたり一転して低価格、はてはSPAの模倣まで色々やってみましたがいずれも失敗、現在に至っています。
高級化路線は技術が無くて失敗、ディスカウント路線は運営コスト高で新登場のディスカウント業態と勝負になりませんでした。
この時期に発生した不景気は、消費の飽和−不良在庫増大−設備投資減少という形で進んでいましたが、折からの土地バブル、株バブルがこれを覆い隠していました。
次回は「バブル」について書いてみたいと思います。
投稿時間:2003/01/27(Mon) 11:24
投稿者名:takeo
タイトル: <バブル>とはなにか
バブルとは、「買った値段よりも高く売れるだろう」という関係者の思惑が原因で起きる特定の商品の暴騰ですね。最近では土地、株がその対象でした。
歴史的に有名なのは、17世紀オランダのチューリップ投機ですね。チューリップの球根一個と馬車1台が交換されたと言います。
他にもいろいろなバブルがありますが、株や土地、産業など実体経済に関連しているので、通常の経済取引のようにも見えます。しかし、取引動機はチューリップの球根の場合と全く同じ、「買った値段より高く売れるだろう」という思惑=投機です。
バブルの崩壊は、実体経済で進んでいた消費の飽和、新規設備投資の停滞、土地実需の縮小というなかでふくれる一方だった投機市場が、一片の大蔵省通達で一瞬にして崩壊したわけですが、もし実需が伴っていればこういうことが起きるはずがありません。
株式も同様です。
株式市場の相場は何に基づいているのか? もちろん、思惑以外にはありません。
さまざまな社会の出来事が株価に反映するといわれますが、実際に反映しているのは、社会の出来事の株式市場に対する影響についての投資家の思惑、ですね。メディアでは「市場に聞いてみる」、とか「市場の反響」などとなんだか市場に客観的な力が備わっているような言い方がまかり通っていますが、全くの噴飯です。
こういうエコノミストだかアナリストだかしりませんが、デリバティブ市場の通念を信じ切っている人たちがご託宣を垂れる、メディアの素人がそれをチェックできない、というのは考えさせられます。素人は素人の目で対象を見ないと、変に専門家を当てにしてその袖にぶら下がったりするとろくなことはありません。我々は常に素人に徹して、専門家のお説を実態に照らしてチェックすべき、この時期、専門家の意見は眉唾だというのは商店街活性化に限ったことではありません。人文系では唯一科学的な合理性を備えていると言われてきた「経済学」が全くの思いこみであった、ということが経済の実態によって暴露されている、というのが現状です。
余談になりましたが、いずれにせよ、この市場経済から派生した市場=投機市場は実体経済と密接に関連しており、その景況は実体経済に大きな影響を及ぼします。これまではもちろん「含み」ということで投機にあたっての根拠=言い訳でした。実態は「持ち合い」で含みを吐き出す=経営資源として活用することは不可能だったのですが。
市場下落で含み(取得価格<放出価格)が期待できないことが常態となれば、これはB/Sの悪化をもたらすだけでなく、実体経済の将来を非常に暗くすることになります。つまり、株式市場の景況=実体経済の反映という思いこみから、株式市場の低迷=不況という認識につらなり、不況対応型経営行動が生まれるわけです。
たしかに実体経済は悪いのですが、悪い原因の一つは土地、株式市場=投機市場を実体経済の一部と見誤ったうえで下されている景況感にあります。投機=ゼロサムであり、伸びる人があればへこむ人があるという状況が当たり前になれば、市場も縮小されることでしょう。土地価格については設備としての投資効果という実需レベルに落ちつくことも予想されます。
さて、これまでのように実需無視の投機が出来たのは、その背景に「市場経済はこれからもずうっと成長する」という市場関係者に共通する信念があったからです。資本主義における経済の成長は起業と与信に依拠していると言われますが、その前提としては市場の成長、個別企業で言えば、含み資産の実現化ということが暗黙の前提だったわけです。株式市場における株価に依存する米国の新進企業を中心にキャッシュフロー経営ということが言われ、エンロンなどが当期利益の粉飾で株価を維持しようとしたのは、実体経済における潜在市場の枯渇=B/Sの左方のそのまた左側にあった「潜在市場」を前提とした経済の行き詰まりを暗示するものかも知れません。つまり「もはや含み無し」というのが資本主義市場の現段階ではないか、ということですね。
このような論議とラグジュアリィ志向との関係については、おいおい述べていきたいと思います。
本論からずれますが、現在広く世間に流布している経済学は全く「学」としての体裁を備えていません。今年は余技として経済<学>を検討して見たいと思います。
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