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FLASH NOTE 2001 保存版


F035■ 中心商店街は都市の顔 Date: 2001-10-28 (Sun)

 最近ではほとんど聞かれなくなったがかっては、商店街は都市の顔である、ということがよく言われたものである。「顔だから化粧しなくちゃ」ということで環境美化、街並み整備事業の文脈で言われていたのだと思うが、最近は顔ではなくなった? 
一度顔といえば事情がどう変わろうとも顔は顔である。以下、「商店街=都市の顔」論を検討してみたい。

 「顔論」は、もちろん人間における顔の機能?を前提とした比喩である。ここで用いられている「顔」は「顔を見ればその人の人となりが推測できる」という文脈で使われる場合の顔である。私たちが初対面の人を理解しようとするとき、とりあえずその人の顔を見て、これまでの経験で蓄積してきた「顔と人となりの関係」についての頭の中にあるデータを駆使して「何者であるか」の見当をつけようとする。これは意識的に行われることもあれば無意識に行われることもある。

 ある都市がどのような個性をもった都市なのかということを判断するにあたって、商店街、それも中心商店街を見る、ということは店舗数、業種・業態の充実度合いなから推測される総合的な都市の活力を見る、ということであった。専門家の間では、例えば帽子店があるか、時計、めがね、宝石がそれぞれ専門店として独立しているか、などいろいろと細かなチェック項目があったりしたらしい。また、それらの商品のレベル(品質や価格)を見ればその都市の暮らしぶりも自ずと推測できたのである。そういう二重の意味で商店街は都市の全体像を反映する「顔」だったのである。

 郊外型SCの全盛時代を迎えている今日、自然成長的な商店街は手をこまねいているうちにSC=人口商店街にしてやられた、ということで集積としての密度が薄くなってきた。とても中心商店街が都市を代表する商業集積である、とは言いにくくなっている。商店街の店舗の集積具合から都市の消費能力・活力を判断する、ということは難しくなっているのである。
 
 では、中心商店街に代わって郊外のSCが都市の顔という役割を果たしているのだろうか。否である。郊外型SCは、目隠しされて中に入ればいったい自分がどこのまちの、どういう企業(キーテナント)が開設しているSCに来ているのか分からない、という画一的なレベルである。全国均一・共通のテナント構成、商品構成のなかに全国展開の「専門店」が散在する、というパターンは全国共通、これをみて都市の個性を判断することなどまず無理である。
 いまや全国のほとんどの都市においてその都市を代表する商業施設は、郊外型SCとなっている。金太郎アメ的なSCを見ればその都市の生活が見えてくるか? 

 そこで見えるのは、全国に共通しているレベルの生活でしかない。画一的・集中的コントロールのもとに運営されているSCは「ラグジュアリィ=共通の機能に自分の好みが加えられた買い物」という、自分の生活を演出し堪能するための材料を揃える、という新しいニーズには答えられない。なぜならば、「自分の好み」というレベルには各人が生きてきた歴史・風土、地域性が色濃く反映されており、とても金太郎アメで満足できるものではないからである。

 商店街が都市の顔である、という言い方に期待されていることは、そこがラグジュアリィ・ニーズを満足させる商品を提供している商業集積として充実しており、都市の住民からそのような買い物行き先として支持されているとき、はじめて「街に行けばその地域の暮らしぶりが分かる」ということが実現していてのことである。いま現在、中心商店街がこのような意味での「顔」としての役目を果たしている都市は数えるほどしか無いだろう。

 いつも言っているように中心商店街が活性化するためには街ぐるみでラグジュアリィニーズに対応したショッピングモールへと街ぐるみで転換する飯貝に方法はない。そのときはじめて個々のショップには人々の生活堪能を実現する商品が溢れ、都市の個性的な生活が反映される。街はあらためて人々の生活を映す顔として評価されることになる。

 もちろん、人間の顔はいいことの反映ばかりではないように、都市の顔である商店街もモール化を実現し、商業機能としての充実を実現した時に限って「顔」になるのではない。郊外の金太郎アメに敗退し、さびれてしまった街もそれなりに、「顔」なのである。疲弊・老朽化し、空き店舗が多くなった商店街にはこれまでさまざまな経緯の積み重ねがある。歴史といってもよいだろう。商店街の現状をそれらの経緯の積み重ねがもたらしたものとして、これもまさしく「商店街は都市の顔」なのである。

 活性化に取り組み成功している街、うまく行っていない街、何らかの事情で取り組みが遅れている街、各商店街の現状は、地域の事情や関係者の思惑や能力、それぞれの関係などの総体からもたらされているものである。その意味では現在でも商店街は、ま今日ただいまも、まぎれもなく「都市の顔」で有り続けているのである。
 
 ラグジュアリィニーズという新しく生まれてきたニーズに対応する商業集積を自前で作り出すことのできない都市は、全国どこにも共通するような平凡な生活しか提供できない没個性的な都市になっていく。このような都市がそれなりに存続できるのはまだ真の意味での都市間競争が始まっていないからである。真の意味での都市間競争とは、「どこの都市が自分らしい生活を堪能できる条件を整えているか」ということを基準に人々から選択される、ということである。ラグジュアリィニーズ対応の商業集積は選択の大きな要因となる。

 都市間競争における商業集積間競争とは、中心商店街がになうべきラグジェリィニーズ対応型集積の充実度合いをめぐるものであり、ジャスコやセイユーなどがキーテナントのSCを郊外に張り付けることでは断じてない。思い当たる都市の行政の担当者はこのあたり真剣に考えてみるべきではないのか。
SCの誘致などにかまけて中心商店街の活性化に手抜きしている行政にとっても、街は都市の顔、都市マネジメントの担い手としての行政の手腕・能力も白日の下にさらけ出されてしまう。「中心市街地活性化法」が制定されて中心市街地活性化が都市マーケティングの主要な課題として浮上している今日、都市都市間マ−ケティング競争、都市行政のマネジメント能力をめぐる競争でもあるのだ。

 中心商店街の現状は「都市の顔」、その表情は皆さんの取り組みでどう変わって行くのか、中心商店街の今後のあり方は都市の「暮らしの場」としての堪能具合を左右する、究極の都市の魅力を左右するものである。
 都市の総合的な力量は中心市街地とりわけ中心商店街の活性化への取り組みに象徴的に現れているといって過言ではない。



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