米国ネットバブルの崩壊は、我が国においても「明日は我が身」ととらえられている。「前車の覆るは後車の戒め」、後発の利点は先達の試行錯誤の過程を追随しながらその先進者というポジションから宿命的にもたらされる限界を見定め、機に乗じて一気に抜き去るところにある。
もちろん、このことを成就させるには後発に位置するものにもそれなりの能力が必要であり、ある分野においては先達に勝るとも劣らぬ力量が要求されることになる。この能力を装備するにはそれなりの準備が必要だがここでは論じない。
開国以来、我が国は西欧の文化・文明の移植を図ってきたが、和魂洋才などとスローガンはそれなりであったが、実態は彼の水準に圧倒され、いつのまにか魂はどこかに消えてなくなった。今から考えればなまじ「和魂」などと負け惜しみを言ったのが間違い、素直にすべてを学び取る、という姿勢をもって彼の発想の根元に迫るべきだったのかも知れない。
ということで、明治以来の発想輸入は今日まで引きも切らすに続いている。で、「和魂」をもって「換骨奪胎」という基本戦略のはずだったが、「和魂」が雲散霧消したあげくの輸入であったため、「換骨奪胎」が「抜骨奪胎」になっている、というのが我が国各方面の現状ではないだろうか。つまり、骨なしぐちゃぐちゃ、ね。各方面とも早くこのことに気付いて対策を講じないと21世紀の我が国の行く末は寒心の限りということだ。
さて、ITの話。
ITとはもちろん情報処理技術。情報処理とは、その収集・加工・編集・伝達・記録等々のプロセスの処理技術である。情報について考察するときに不可欠なのが情報と情報主体との関係である。情報とは情報主体の問題解決のツールとおけば、情報に関わるメタ理論としての主体の問題状況の考察が不可欠だ。
工業化社会の爛熟−ポスト工業社会への移行という時代を象徴するバブルの崩壊以降、企業・役所など問題解決の主体が直面している問題状況は一変しており、従来のスキームによる情報処理では的確な意志決定が不可能になっている。
われわれが直面している課題はITの改革ではなく、問題解決のスキームの改革というより根元的なものであったにもかかわらず、偶然にも同時期に突出したIT技術の革新により、情報処理技術の革新が工業社会の隘路を突破する方途であるかのような錯覚をもたらした。
このことは日本のみならず米国においても同様、というよりも日本の場合、またしてもその受け売りだったのかも知れない。ついこのごろまで、IT革命は日本経済再生の牽引車と位置づけられ、風が吹けば桶屋が儲かる式の怪しげな理屈でネットバブルの発現が日本経済の宿痾をいやす文字通り起死回生の戦略と喧伝されていた。
うたい文句は、取り引きコストの最小限化ということであったが、すぐに気がつくことは取り引きコストの提言が新しい需要を生み出すことはない、ということである。
新しい需要は、市場の潜在的な需要の兆候をとらえ、仮説的に商品化し提供して市場とのやりとりのなかで磨き上げていく、という優れて創造的、挑戦的な活動によって探り当てられる、取り引きコストの縮減は既存レベルの改善という意味では必要だが、今日的な戦略課題はけしてそこにあるのではない。企業のこれまでのマーケティングビヘイビアと市場との間に発生しているギャップをどのように改革していくのかという、ポスト工業社会における企業活動のありようにも関わる画期的な問に答えを見いだすことが求められており、アップスケール化しているニーズに対応する企業活動のパラダイム転換こそが戦略課題なのである。
このように考えてくれば、現下取り組まれているITの革新という課題は、必須課題ではあるにせよ、それを整備したからといって企業の業績がどうなるものでもない。リアルにおける問題をバーチャルレベルで解決することは出来ない。IT革命なるもの、企業戦略としてはきわめて表層的であるといわざるを得ない。それに先行して少なくとも平行して「問題状況」に関わるスキームの抜本的な再構築が必要であり、さらに遡れば、ポスト工業社会における需要と供給の関係というより根元的なレベルでの認識が問われているのである。
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